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2011年5月30日 (月)

サミットでピントを外す菅首相

フランスのドービルで開催されたG8サミットは27日、首脳宣言を採択して幕を閉じた。首脳宣言の冒頭で「日本との連帯」が表明され、日本が他のG8諸国と価値観を共有する国であり、G8が連帯して日本の復興に協力することが確認されたことは、日本にとっては意義深い。 しかし、同時に、首脳宣言には、日本の首相は、今回の災害が世界経済に与えうる不確実性を最小化し、原子力の非常事態についてすべての情報を適時提供し、日本の輸出品の安全性を確保することを約束したと記されている。どれも当然のこととして日本政府が取り組まなければならない事項であり、菅首相自身が説明したことではあるが、首脳宣言に記載されたということは、G8はこれらの事柄に関心を持ち、懸念を抱いていたことを示している。 一方、菅首相が盛んに力説したにも関わらず、首脳宣言に全く触れられていないことがある。それは、2030年に太陽光発電のコストを6分の1に削減することであり、2020年代中に再生可能エネルギーによる発電を20%までに高めることだ。 首脳宣言の中には、「原子力安全」の記述の中に、「各国が、エネルギー・ミックスにおける原子力エネルギーの利用および貢献について、段階的導入または段階的廃止も含めさまざまなアプローチを取り得ることを認識する。」という文言が記載されただけだ。再生可能エネルギーについては、全く触れられていない。つまり、再生可能エネルギーを使おうが使うまいが、それは各国ご勝手に、ということだ。 そもそも、G8首脳は、福島第一原発事故が起きたからといって、原発に対する態度を変えるべきだとは思っていない。確かに、ドイツとイタリアは政府が反原発に舵を切った。しかし、それは、現政権が望んでそうしたわけでなく、世論と野党からの批判をかわすために行った政策変更だ。原発を推進しようとしている米国やサミット開催国のフランスに至っては、今回の事故の後も原発推進の方針を変えていない。 こうしたG8サミットの空気の中で、菅首相は原子力から再生可能エネルギーへの転換を熱心に主張した。これを聞かされたG8首脳の多くは、内心、共感よりも反感を抱いただろう。 ドイツのメルケル首相にしてみれば、原子力事故を起こした国の首相が原子力から再生可能エネルギーへの転換を主張することは、国内の野党を勢いづかせるだけであって自分にとってはメリットがない。 フランスのサルコジ大統領や米国のオバマ大統領にとっては、今まで福島第一原発に人員と機材を送り込んで最大限の支援をしてきたにも関わらず、原発は危険だから再生可能エネルギーへと言われたのでは、フランスや米国の技術を持ってしても原発の安全性は確保できないと言われているのと同じで、受け入れがたい発言に思えただろう。 菅首相は、サミットの直前まで、再生可能エネルギーによる発電比率を20%でなく30%と言いたいと事務方に主張していたそうだ。周りの官僚が、実現の目途の立っていない数字を口にすべきではないと押しとどめたそうだが、菅首相は20%よりも30%の方が受けがよいと考えていたようだ。このあたりの国際感覚の無さが菅直人という人の限界を示している。 他のG8首脳にとっては20%でも30%でもどうでもよいことなのだ。むしろ、日本が福島第一原発の試練を乗り越え、より原子力の安全性を高めることに貢献してくれることを期待していた。 菅首相はそのことに気付かず、原子力から再生可能エネルギーへという自身の言葉に、ひとり酔っていた。一方で、他の首脳が重大な関心を持っていた中東の春などの議題については、何の貢献も示すことはできなかった。全くピント外れの首脳外交だったと言わざるを得ない。 このような宰相を持つことが日本の運命だとすれば、日本にとってあまりに厳しい運命だ。

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2011年5月25日 (水)

再生可能エネルギーで原発を全てなくすことはできない

菅首相は26日からフランスで開催されるサミットで、先に経産省がまとめた「サンライズ計画」を発表する。「サンライズ計画」とは、太陽光発電コストを2030年に6分の1にし、設置可能なすべてのビルや住宅の屋根に太陽光パネルを設置するなどして再生可能エネルギーの拡大を図ろうという構想だ。

菅首相としては、福島第一原発の事故を受けて、原子力から再生可能エネルギーへ舵を切ったという印象を与えたいのだろうが、この計画は、もともと経産省が持っていた政策に看板を付け替えたに過ぎない。

例えば、2030年に太陽光パネルのコストを6分の1にするという目標は、2004年に経産省配下の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が設定した「2030年に1kW当たり7円」という目標と同じだ。7年前に設定した目標をそのまま「サンライズ計画」に取り入れただけで、そこには技術革新を加速させようという意図はない。

一方、設置可能なすべての屋根に太陽光パネルを設置するというのは意欲的ではある。しかし、コストが十分に低減していない状況で、無理に設置させようとすると社会全体で大きな経済的な負担を負わなければならない。

本年度の太陽光発電の電力買い取り価格は1kW当たり42円だ。5~6円と言われる原子力発電のコストに比べて極めて割高だ。電力会社は42円という高い買い取りコストを電力料金の上乗せで賄っている。コストが高いまま太陽光発電の買い取り量が増加すれば、電力料金をさらに上げなければならない。加えて、原子力発電を止めることになれば、全体の発電コストが上昇し、電力料金の引き上げ幅は更に大きくなる。

経済性を無視した「サンライズ計画」の強行は、ただでさえ高い日本の電力料金を更に上昇させ、日本経済の国際競争力を更に劣化させる。

電力料金の値上げに限界があるとすれば、経産省が予算を確保して補助金をバラマクということになる。経産省の権益は拡大するかもしれないが、結局、その財源は税金で賄われることになり、国民の税負担の増加をもたらす。長い目で見れば、これも日本経済の競争力低下の要因のひとつだ。

もっとも、原子力も廃炉や事故に対する補償金の費用を考慮に入れれば、そのコストは5~6円では済まない。福島第一原発の事故を受けてエネルギー政策を見直すならば、その第一歩は、この原子力発電のコストの見直しから始めるべきだ。

その上で、最大限再生可能エネルギーのコストダウンへ向けた技術革新を促進するプランを立て、それらのコストの比較に基づいて、将来のエネルギー源の最適な組み合わせ(ベストミックス)を見直さなくてはならない。経済性を無視したエネルギー政策は、日本経済を弱体化させるだけだ。

では、経済性の観点で将来のエネルギー源を考えるとどうなるか。結果としては、現在の技術動向から見通せる範囲では、2030年までに経済性の点で再生可能エネルギーが原子力を凌駕するのは難しい。

それは、再生可能エネルギーによる発電設備のコストが高いからというだけではない。風まかせ天気まかせの再生可能エネルギーが全発電量の50%に達すると仮定すると、電力系統内に大規模な蓄電設備を導入する必要があるからだ。大容量の蓄電池を使って余剰電力を蓄電し、電力供給が不足する時に放電して需給バランスを維持しなければならない。この蓄電設備への必要投資額は再生可能エネルギーの発電設備への投資額をはるかに超える。

現行のエネルギー基本計画では、電源として原子力発電を2030年に50%と見込んでいた。経済性を無視すれば、そのすべてを再生可能エネルギーに置き換えることは可能だろう。しかし、それは大きな経済的負担を日本社会全体に強いることになる。海外との競争を考えれば、おそらく、その負担は合理的な限度を超えたものとなる。

福島第一原発事故の収束が見えない今は、感情的な反原発の空気が日本を覆っているのは致し方ないが、エネルギー政策は、長期に渡って国の将来に影響を与える政策だ。その見直しに当たっては、冷静で客観的な分析に基づく判断が何より重要だ。

冷静、かつ、客観的な分析をすれば、その結論は自ずと明らかだ。

すなわち、電源のベースが原子力であることは変えない。しかし、安全性向上のための投資と技術革新を推進する。再生可能エネルギーについては、発電コストと蓄電コストの低減へ向けた技術革新を推進する。つまり、高価格の電力買い取りや補助金で普及させるのではなく、コストダウンによる利用拡大を促す。そして、再生可能エネルギーを含む多様な電源をつないで電力の需給バランスを最適化する高度な電力網、スマートグリッドを全国に張り巡らす。

こうしたことを世界に先駆けて日本が実現することができれば、日本経済の国際競争力は回復の道をたどることになるだろう。

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2011年5月23日 (月)

子ども手当に所得制限を付けて年少扶養控除を復活させないのでは少子化対策にならない

自民・公明両党は今週から、民主党の子ども手当法案への対案を共同提出する方向で協議を始める。

公明党の主張は、現在月1万3千円支給している子ども手当を月1万円に減額し、さらに所得制限を付けることだ。民主党政権は所得制限を付けずに高額所得者にも子ども手当を支給することを理由に年少扶養控除を廃止したが、公明党はこの年少扶養控除の復活にも反対している。

自民党は公明党との連帯を重視する姿勢だ。自民党としては、公明党が自民党と離れて、単独で民主党と協力する事態は避けたい。その思いが、公明党案を丸飲みする方向に自民党を動かしている。

では、公明党案の通りに子ども手当制度が修正され、一方で年少扶養控除を復活しなかったらどうなるか? はっきりしていることは、一定以上の収入のある家庭では、子ども手当導入前の児童手当の頃よりも負担が増えるということだ。

大和総研が小学生の子ども一人がいる給与所得者の世帯について試算した結果によると、公明党案では、年収約540万円を分岐点として、それ以下の世帯では子ども手当導入前に比べて手取り額は増え、それ以上の年収の世帯では手取り額が減る。年収500万円の世帯では年8000円の増額だが、年収700万円の世帯では1万1700円の減額となる。さらに、年収が高くなると年少扶養控除が廃止された効果が大きくなり、年収1000万円では10万9000円、年収1500万円では15万8400円の手取り額の減少となる。子どもの数が多ければ、この格差はさらに拡大する。

この問題を考える上で重要なことは、今日の日本にとって必要なのは子育て支援なのか少子化対策なのかという点だ。公明党案は子どもを持つ低所得者に対する生活支援にはなっているが、社会全体に対する少子化対策にはなっていない。

日本経済の成長力を鈍化させ、福祉水準の維持を困難にしている要因のひとつは、少子化による労働人口の減少だ。子どもを持つ低所得者の困窮も社会問題ではあるが、それは、生存権に関わる問題であり、生活保護の充実などで対処すべき問題だ。憲法が保障する文化的な生活が享受できている世帯に対して、更に国費を投じて手取りの増額をするなら、その目的は生活支援ではなく少子化対策に置くべきだ。

少子化対策を目的とするなら、公明党案はその目的に逆行する改悪案だ。低所得者だけに現金を渡しても社会全体の出生率は向上しない。逆に、高額所得者にとって手取り額の減少になるのであれば、この層の出生率の低下をもたらす可能性もある。

すべての世帯に対して新たな出生を促すなら、すべての世帯にとって、子どもを新たに生み育てることが楽になる制度でなければならない。その意味では、低所得者のみが恩恵を得る公明党案よりは、所得制限なしですべての世帯に支給する現行の子ども手当の方が効果的だ。

しかし、民主党政権が導入した現行の子ども手当制度も、その少子化対策としての効果は限定的だ。それは、「子どもを新たに生み育てることが楽になる」と感じる程度の額は、世帯の収入によって異なるからだ。

年収300万円と世帯と年収1000万円の世帯では1万3000円のありがたみは異なる。高額所得者が「楽になる」と感じて子どもを作ろうと思うには、より多くの金銭的なインセンティブが必要になる。その意味では、所得税が多ければ多いほど、減税額が多くなる年少扶養控除は合理的な制度だ。

したがって、少子化対策という観点に立てば、「年少扶養控除を核として、所得税を納めていない低所得者に対しては現金支給という負の所得税を支給する。」という制度の方が一律支給の子ども手当よりも望ましい。

さらに、新たに子どもを産むことを促すという意味では、高校授業料無料化は有効ではない。高校生を持つ親が、経済的に楽になったという理由で新たに子どもを産もうとは思わないだろう。少子化対策としては、より年齢の低い乳幼児や児童を持つ家庭に対して、より手厚い経済的支援をする方が効果的だ。

高校の授業料無料化をする予算があるなら、高校生に対する奨学金制度の充実を図る方が社会的な意義は大きい。高校に行く気もない生徒に対してまで授業料を無料化する必要はない。能力と意欲は高いが家庭の経済的な事情で進学が難しい子ども達に教育の機会を与えることの方が遥かに重要だ。

自民党は、安易に公明党に妥協することなく、何が日本の将来にとって重要かという視点に立って、子ども手当の対案をまとめるべきだ。これは政局で左右されるべき問題ではない。国家百年の計に基づいて考えるべき問題だ。

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2011年5月20日 (金)

日本経済を犠牲にして延命を図る菅政権

東日本大震災から2カ月を過ぎてもなお、福島第一原発の事故が収束へ向かわない中、菅内閣の場当たり的な対応が日本経済に深刻な影響を与えつつある。

例えば、国の責任をあいまいにし、東電と電力業界に補償責任を押し付ける東電支援スキームを発表したことで、東電だけでなく電力業界全体の信用力を毀損し、電力会社の株主、社債権者に大きな損害を与えている。電力株は下落を続け、震災直後の安値をも更新した。

さらに、枝野官房長官が東電に融資している金融機関に対して債権放棄を求める発言をしたことで、銀行株も大きく下げ、日本の金融市場の信認が揺らぐ事態になっている。枝野発言に対して菅内閣の閣僚の中からも異論が出たが、枝野官房長官は、20日の記者会見でも債権放棄は東電支援スキームの一部であると主張している。金融機関が債権放棄をすれば、東電は新規融資を受けられなくなり、東電の賠償能力が低下して国の支援を拡大せざるを得なくなる。しかし、枝野氏は、このことには無関心のようだ。

また、科学的根拠もなく突然表明した浜岡原発停止要請によって、他の原発の安全性に対する不信が募り、定期検査中の全国の原発の再稼働が難しくなった。これにより、電力供給不安は関東、東北だけなく、全国に広がった。そもそも、原発のリスクは地震の発生確率ではなく、地震が起きたときに耐えられるかどうかで決まる。したがって、浜岡原発も他の原発も抱えているリスクは同じだ。浜岡原発が危険なら他の原発も危険ということになる。逆に、他の原発が安全なら浜岡原発も安全であり、停止させる必要はない。

原発は13か月運転すると定期検査に入る。定期検査中の原発の再稼働が認められない状態が1年続けば、日本のすべての原発が停止することになる。全体の30%の発電量を占める原発が全基停止しては節電だけで乗り切ることは難しい。

電源供給不安が全国に及び、かつ、長期化が予想される状況になると、製造業の海外移転は加速する。日本の製造業の空洞化が進み、雇用と税収が失われることになる。震災復興や原発事故の補償の財源を確保することは、ますます、厳しくなるだろう。

一見、菅政権は、影響をよく考えずに場当たり的な対応を続けているように見えるが、一貫しているのは、一日でも長く菅政権を延命させるためには形振り構わず、思いついたことを何でもやる姿勢だ。

東電に第一義的な補償責任を負わせるのは、国の責任を目立たなくさせるものだ。電力会社にも負担させるのは、補償に対する国の財政支出を抑え、むしろ、国の予算は利権が絡む復興に振り向けようとするものだ。補償の支出先は自ずと決まっているが、復興は政治が使い道に介入できる。その分、利権が生まれる余地が大きい。

また、枝野官房長官が金融機関に東電に対する債権を放棄するよう求めているのは、大手銀行にも厳しく対処する大衆の味方というポーズを取って、国民の支持を得ようというスタンドプレーだ。その結果、東電の補償能力が落ちてきたのは皮肉だが、それよりも直近の支持率の方が気になるのだろう。

浜岡原発の停止要請にしても、小沢元代表を始め民主党内からも菅おろしの声が高まったことに対する反撃以外の意味はない。経団連会長は、思考過程がブラックボックスの中で全く分からないとコメントしたが、そもそも菅首相は政局のことしか考えていない。菅首相が浜岡原発の危険性や停止の影響を客観的に分析した形跡は全くない。政権維持が第一の関心事だとすれば、菅首相の思考過程は明快そのものだ。

問題は、菅政権が次々に打ち出す政策が、菅政権にとっては明快な延命策であっても、日本経済にとってはその命運を危うくする政策だということだ。

このままでは、日本の将来は危うい。経済界は覚悟を決めて、菅政権と対峙すべきときだ。もはや、菅政権との調整に時間を費やす時期は終わった。政府・与党に対案をぶつけて野党とともに解散総選挙を求めるべきだ。

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2011年5月16日 (月)

東電の発送電分離は原発事故の補償とは別問題

玄葉国家戦略相が15日のテレビ番組で、東京電力の発電部門と送電部門を分離する案に言及したことについて、枝野官房長官も16日の記者会見で、発送電分離は「選択肢としては十分ありうる」と述べ、検討対象となる可能性を示唆した。

今回の発送電分離案は、東京電力の補償支援スキームをどうするべきかという議論の中で出てきたが、本来、発送電を一体のままにするか、分離するかは、福島第一原発事故とは全く関係がない別問題だ。

最初に言及した玄葉国家戦略相はその点を認識しているようだが、枝野官房長官は、故意に福島第一原発事故の補償問題に絡めている。東京電力が嫌がる発送電分離の可能性をちらつかせることで、東京電力から年金の減額などのさらなる補償金捻出を引き出そうとしている。

枝野官房長官は同じ記者会見の場で、東京電力の清水社長が賠償金支払いのために退職金と企業年金を削減することは検討していないと国会で答弁したことに対して「東京電力が現在置かれている社会的状況を理解していないと改めて感じた」と述べた。枝野氏らしい露骨な脅迫だ。

東京電力にとって、退職金や年金を削減することはできないことではない。しかし、それをやっても事故補償額全体から見れば微々たるものだ。また、東京電力の補償費の支払いは、今後、10年以上に渡って続く。退職金や年金を10年以上に渡って削減するというのは現実的ではない。もし、そんなことをすれば、有為の人材は東京電力から流出していく。それは、日本にとって有益なことではない。

そもそも、JALのような破綻処理はしないという支援スキームを発表して株主や社債権者を守っておきながら、従業員にだけ犠牲を強いるのは筋が通らない。

結局、今回の枝野官房長官の発言も、菅政権が悪者東京電力を懲らしめたというパフォーマンスを演じて見せているに過ぎない。中部電力に浜岡原発の停止を要請したのと同じ感覚だ。

浜岡原発の停止では、国民の7割程度の支持を得た。しかし、多くの国民は、科学的な根拠なしに原発を停止することが日本という国に与えた影響を理解していない。浜岡原発の突然の停止は、エネルギー安全保障、経済の競争力、サミットを控えた外交など、日本の国益に大きな影響を及ぼした。

菅政権がいつまでもこのようなパフォーマンス政治を続けていると、日本の衰退は加速するばかりだ。

また、発電と送電の分離は、東京電力固有の問題でもない。すべての電力会社を含む日本の電力供給全体の問題だ。再生可能エネルギーの更なる活用へ向けたスマートグリッドやスマートシティの検討の中で、長期的、俯瞰的な視点で構想を固める必要がある。原発事故の補償問題とは切り離して、エネルギー政策全体の中で議論すべき問題だ。

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2011年5月13日 (金)

東電賠償スキームは国が補償責任を認めたのも同じ

政府は13日、福島第一原発事故に対する東京電力の損害賠償を支援するスキームを発表した。JALの再建案とは異なり、原資や債券カットは行わず、国と電力会社が作る新たな機構が債務超過を防ぐために必要なだけ援助を続けるという仕組みだ。

結果として東京電力の主たるステークホルダーである株主や社債権者は守られた。一方、このスキーム案は東電に対して金融機関から得られる協力について政府に報告するよう求めている。平たく言えば、東電に融資している金融機関に金利減免などの協力を求めているということだ。よりリスクを負っているはずの株や社債は守るのに、より返済が優先されるべき融資の方に金利減免などの協力を求めるのは資本市場のルールに反する。金融機関は簡単には協力しないだろう。

結局、東電のステークホルダーは補償を負担せず、負担するのは国と他の電力会社が作る機構と東電に電力料金を支払う利用者だけということになった。菅政権は、補償の第一義的な責任は東電にあると主張し続けてきたが、今回決定したスキームは、責任は東電ではなく国にあると認めたに等しい。

つまり、菅政権は東電が上限なく補償の責任を負うとしたものの、現実には上限なく補償することはできないため、国が上限なく東電を援助するということになったということだ。東電の倒産を回避しようとすれば、債務超過に陥らない範囲でしか補償を負担させられない。東電の負担額には実質的に上限がある。同様に、新たな支援機構に出資する電力会社にも上限がある。最後に上限なく援助するのは国だけだ。そしてもうひとつ援助する者がいるとしたら電力料金の値上げを甘受する電力利用者だ。

これで東電を免責したのと大差はない結果となった。違いは、菅政権が責任は国ではなく東電にあるという政治的ポーズを取ることができたとういう点だけだ。

そうであれば、最初から今回の震災が原子力損害賠償法第三条但し書きの「異常に巨大な天災地変」であることを認め、東電を免責して国が補償責任を負うというスキームにした方がよほど、シンプルで迅速に補償を開始することができた。

例えば、国が全面的に上限なく被害を補償し、その財源には電力会社の原子力施設に対する新たな課税を持って充てるという手もある。

そうすれば、長期に渡る避難や風評被害に直面している人々をすぐにでも救うことができ、その費用は、長期に渡って電力会社が負うというスキームとなる。菅政権の東電援助スキームよりよほど合理的だろう。

今からでも遅くない。国会審議の場で、被災者の視点に立って新たな視点で考えて欲しい。

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2011年5月 9日 (月)

菅首相の浜岡原発停止要請で衰退が加速する日本経済

菅首相は6日、中部電力に対して浜岡原発の停止を要請した。反原発を唱える人々は支持しているが、これによって、日本経済は更なる重荷を背負うことになった。

菅首相が浜岡原発停止を求めるに至った論理は以下のようなものだろう。

政府は定期検査中の浜岡原発3号機を運転再開するかどうかの判断を求められている。
しかし、静岡県知事は反対している。
もともと浜岡原発は東海地震の震源域に立地しており、かねてより地震による災害が懸念されていた。
地元の反対を押し切って3号機を運転再開して地震による事故が発生した場合、内閣の責任が問われることになる。
既に、福島第一原発の事故への対応を巡っては、場当たり的だとの批判を受けている。野党だけでなく、民主党の小沢元代表も批判を公然と口にしている。
福島第一原発に続いて浜岡原発でも事故が起きることは菅政権にとって致命的だ。
したがって、浜岡原発3号機の運転再開を認めるべきではない。
しかし、安全性の懸念から停止中の原発の運転再開を認めないなら、運転中の2基の原発の運転を認めるのは論理的に筋が通らない。
したがって、運転中の原発についても停止を要請する。
停止を要請するなら、菅首相のリーダシップを顕示するために、首相自身の記者会見で表明するというパフォーマンスを演じる方がよい。そうすれば、福島第一原発での失点を幾分かは挽回することができるだろう。

この論理は、菅直人という人にとっては理にかなっているのかもしれない。しかし、首相という地位の人が考えることとしては、あまりに非論理的で、それこそ場当たり的だ。

浜岡原発停止の理由を東海地震の震源域の中にあることを挙げているが、そんなことは以前からわかっていたことだ。国の安全基準はそれを考慮して決められていたはずで、その基準に合致して国の検査に合格している浜岡原発を止める理由にはならない。

浜岡原発の1号機、2号機は廃炉にされるが、それは、旧式のこれらの原子炉では、耐震性に問題があることが明らかになったからだ。それゆえ、廃炉にして、最新型の耐震性にすぐれた原子炉に置き換えようとしていた。

耐震性に優れた3号機以降の原子炉を止めるのなら、東海地震の震度や津波の予想規模が今までの予測よりも大きくなりそうだというような科学的な分析による新たな根拠が必要だ。

あるいは、地震の予想規模は同じでも、今まで準備していた対策では不備があることが新たに明らかになったというのも理由になりうる。福島第一原発の教訓からすべての原発に電源車を配置したのは、この例だ。

しかし、今回の菅首相の突然の発表では、東海地震による被害が今までの想定より大きくなるという根拠は何ら示されなかった。おそらく示すことができないからだ。結局、科学的な根拠ではなく、政治的な空気で判断しているということだ。

一方、浜岡原発の全炉停止を求めたことで、東海地域の経済は大きな影響を受ける。

短期的には、この夏の電力需要のピーク時を何とか乗り切れば、停電による混乱は避けられる。しかし、原子力から石油や天然ガスなどの化石燃料を使った火力に発電を頼ることによって、電力コストは高くなり、電力料金は値上げを余儀なくされる。

また、中部電力が再開させる火力発電所は老朽化が進んでおり、安定した電力供給にも不安がある。

高い電力料金と供給不安がある中、東海地域の製造業が中長期的に製造拠点を維持することは経済合理性に反する。中部電力管内は、トヨタ自動車を始めとしたメーカーが製造拠点を持つ日本有数の製造業の集積地だが、今後、これらの製造業は国外への工場移転を加速するだろう。

菅首相は、長期にわたる政権維持を既に諦めているのかもしれない。おそらく直近の支持率だけが関心事なのだろう。しかし、国民は何代にも渡ってこの国で生きていかなくてはならない。首相たる者、政権の行く末より国の行く末を考えて決断すべきだ。今回の浜岡原発停止要請が国の行く末を考えた上での政治決断とはとても思えない。

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2011年5月 5日 (木)

原発事故の補償責任は国にある、東電は裁判で決着を急ぐべき

福島第一原発の事故の補償を巡って、その枠組み作りに時間がかかっている。未だ、放射能の封じ込めに至らず、事故の終息がいつになるかが見えない現状では、被害が更に拡大する恐れもある。被害総額がわからないままでは、補償に対する国と東電との間の分担の割合も決めにくいという空気が菅政権の中に漂っている。

しかし、被害総額によって国の賠償責任が変わるというのはおかしな話だ。菅政権は、とかく国民の目に自らの政権がどう見えるかを気にして行動する。結果、政治的なパフォーマンスを優先した場当たり的な意思決定ばかりが官邸から出されることになる。今回の福島第一原発の事故に関して、菅首相も枝野官房長官も東京電力が無限責任を負うと主張しているのも、こうした行動原理に基づくものだ。

首相官邸は、今回の事故が発生したのは国の責任ではなく東京電力の責任だということにしたいと思っている。つまり、大地震と大津波に対する対策を怠ったのは東京電力であり、その結果、起きた原発事故の責任は東京電力が負うべきであって、国に過失はないというメッセージを国民に伝えたいのだ。

国に責任があるとすれば、それは事故を起こした責任ではなく、事故の補償負担が大きくなることによって電力会社が電力の安定供給を果たせなくなり、国民生活に支障をきたす事態になることを回避する責任だ、というのが首相官邸の論理だ。国に過失はないのだから国は補償責任を負わないが、被害総額が大きくなれば、国が東京電力を支援するというのはその論理の帰結だ。

したがって、まず、被害総額を確定し、東京電力の負担能力を見定め、さらに、東京電力以外の電力会社にも負担させて、残りを国の負担にしようと画策している。

しかし、これでは、補償の枠組み作りに時間がかかるのは当然だ。被害総額も不確定、原発事故の処理に関する費用も定かでない東京電力の負担能力も不確定、さらには、東京電力以外の電力会社に負担させることができるかどうかも不確定とあっては、何も決めることはできない。

補償の枠組みが決まらなければ、避難している住民に対する補償も始まらない。政府は5月10日を目途に方針を示すよう調整しているが、単なる方針の表明に止まる可能性も高い。そうなれば、責任の所在も補償の枠組みも確定しないまま、東京電力が一時金の支払いを今後も続けることになりかねない。

そもそも問題は、今回の原発事故の発生と補償の責任を東京電力に押し付けようとする菅政権の姿勢にある。

現行の原子力損害賠償法の第三条には「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない。」という記述がある。

官邸は、事故発生当初から、この条項の但し書きによって東京電力が免責されることはなく、無限責任を負うと主張してきた。しかし、今回のM9.0の地震とそれに伴う津波が「異常に巨大な天災地変」でないとしたら、いったいどのような天災地変がこの但し書きに書かれている「異常に巨大な天災地変」に相当するのか、菅首相と枝野官房長官はその点を明確に説明する責任がある。

菅首相は国会答弁で、今回の地震も津波も発生する可能性を示唆していた専門家もいたにも関わらず、東京電力が十分な対策を講じてこなかったことを指摘したが、対策を講じてこなかったのは国も同じだ。

福島第一原発が稼働してきた40年間、国は何度も検査を行ったにも関わらず、安全対策の不備を指摘しなかった。それは、福島第一原発の設備が国の安全基準に合致していたからだ。国の安全基準は原発が長時間に渡って電源喪失に陥ることも想定していなかった。すべての原発に電源車を配置するよう経産省が指示したのは、今回の事故が起きた後だ。

今回の事故では発生直後の最初の24時間の対応に東京電力が失敗したことが、事態を深刻にしたことは否めない。しかし、国の安全基準が全電源喪失の事態を想定したものになっていれば、東京電力は事故発生当初から容易に対処できた。国の安全基準に準拠して建設され運転されてきた原発が、国の安全基準の想定外の事態に直面して事故を起こした場合、その第一義的責任は国が問われて当然であろう。

さらに、東京電力に事故を起こした責任の一端があったとしても、今回の地震と津波は原子力損害賠償法、第三条が定める「異常に巨大な天災地変」にあたると考えるのが自然だ。そうであれば、東京電力は免責されることになる。

東京電力が免責となれば、補償の枠組みは単純だ。国が全責任を負って対応することになる。枠組み作りに時間を浪費する必要はなくなり、被害が確定した部分から順次補償を始めることができる。菅政権が被災者のことを真剣に考えているなら、速やかに東京電力の免責を認めて、国が前面に立って補償を開始すべきだ。

それができない菅政権であるなら、東京電力は速やかに裁判に訴えて、裁判所の判断を仰ぐべきだ。そうすることが、長期の避難生活を余儀なくされている原発周辺住民を救う早道だ。目先の世論受けを狙ったパフォーマンスに終始する菅政権に調整を任せていてはならない。

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2011年5月 2日 (月)

夜間の節電を止めて消費拡大を

東京電力の供給力の回復と気温の上昇によって、東電管内における電力不足のリスクが低減してきた。このところの電力需要は供給力の90%以下で推移している。おそらく6月までは供給不足に陥ることはない。

もちろん、これは各企業が節電に努めている結果ではある。例年であれば、この時期、平日のピーク時の電力需要は4000万kW程度に達し、現在の東京電力の供給力である3,450万kWを上回る。したがって、節電の努力は、なお、継続する必要はある。

しかし、時間帯によっては、電力需要は供給力を大きく下回っている。例えば、21時~8時の夜間、早朝の時間帯だ。

東京の夜の街は、東日本大震災以来、ネオンやライトアップを消し、街は閑散としている。繁華街の飲食店の消費は落ち込み、アルバイトは職を失っている。それがさらなる消費マインドの低下を引き起こしている。消費マインドの転換点として期待されていたゴールデンウィークも近場で安い所に人が集まり、消費金額という点では不発に終わりそうだ。

日銀の白川総裁は「供給も需要もともに落ちている」縮小均衡のサイクルに入っていると述べている。もし、日本最大の経済圏である首都圏の消費が、東日本大震災から2か月を過ぎても回復しない事態になれば、日本経済全体に対する影響は大きい。

ここは、電力が不足していない夜間、早朝の節電を止めて東京の街を明るくするべきだ。

例えば、夜9時以降はネオンを点灯するべきだ。東京タワーのライトアップも再開すべきだ。街が明るくなることで人々の心も明るくなる。食事の後に、もう一軒行こうかという気にもなる。そういう気持ちが服や旅行に金を使おうかという気にもさせ、まわりまわって消費を回復させる。

あるいは、朝のラッシュ時ぐらいは駅のエスカレータを動かすべきだ。ただでさえ混雑しているラッシュ時にエスカレータを止められたのでは、朝から気が滅入る。職場に着くまでに元気を失っていたのでは、日本は元気にならない。

さらに言えば、夜間、早朝だけでなく、休日の節電も緩和すべきだ。休日の昼間の電力需要は供給力を大きく下回っている。休日は駅や店舗のエスカレータを全面運転にして、お年寄りでも快適な外出ができるようにすべきだ。

事態が改善しているというメッセージを市民に伝えるには、普段の生活が戻ってきているということを実感してもらうことだ。それには、街の灯りが増え、止まっていたものが動き出すということがわかりやすい。

電力が余っている時間帯に節電する必要はない。それよりも、一日も早く普段の快適な生活を取戻し、経済の縮小均衡スパイラルから脱却することがより重要だ。

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